2013年08月11日

在日の方々の気持ち思う2

戦後まもなく、日本を統治してたのは
マッカーサーをトップに据えたGHQです。

そのGHQは
朝鮮学校は、先では日本の障害となる、と、考えてました。

ゆえに、GHQは、朝鮮学校を、強制的に閉鎖しようとしたのです。

このことは、揉めに揉めて
死人まで出る騒ぎとなりましたので
1948年、非常事態宣言が発令され、二千人が、逮捕されました。

多くの朝鮮人は、叫びに叫びました
朝鮮の歴史、そして朝鮮語を学ぶ学校が欲しいと。

力でねじ伏せ、ほとんどの朝鮮学校を閉鎖させ
当時の内閣総理大臣、吉田茂は、マッカーサーに宛てて

朝鮮人を、一人残らず、帰国させたい
その実現に向け、マッカーサーに動いて欲しいと、手紙を書きました。

しかしマッカーサーは、GHQが統治してる間に
この問題を解決するのは、得策ではないと、判断し

共産主義者の台頭は、望まないが、追い出しはしないという政策をとり続けました。

そして1949年
在日朝鮮人連盟を解散させ、その財産を没収しました。

それを受け、文部省は
朝鮮系の学校を完全閉鎖の方向で動きましたが、朝鮮人は、狂ったように・・・

在日の子供を、日本の学校に吸収し
日本人と同じように教育するようにしましたが

結果、朝鮮人の不登校が、大幅に増えました。

文部省は、このままでは、先に向け、犯罪者を生むだけであると、判断し
放課後、朝鮮語と朝鮮の歴史を教えることが、できるように改定しました。

しかしそれでも、朝鮮学校が無くなり
日本人と一緒に学ぶことにより、朝鮮人は、徹底的にイジメにあい

やはり不登校続出の状態は、ほとんど変わらかったようです。


次回に続きます
  


Posted by まじみっちゃん at 10:29

2013年08月11日

在日の方々の気持ちを思う

在日韓国人の方と
初めて真剣に、突っ込んだ話をした時に

「貴方は子供の頃、臭いと罵られ、石を投げつけられたことが、ありますか?」

「自分の本名を、名乗れない人生を、おくったことが、一度でもありますか?」

そう質問されて、ただ黙って、全く何も言えなくなったことを、覚えています。


日本の植民地となってた朝鮮ですが
貧しさから、多くの朝鮮人が
日本の統治下にあった満州や日本に、出稼ぎに来てました。

二百万人の朝鮮人が
活路を求めて、来日してましたが

日本が戦争に敗れると
多くの朝鮮人が、自国へと、帰っていきました。

しかしやはり日本の方が、まだましと判断し
日本に再入国する人、お金が工面できず、いやいやながらでも、日本に残留した人

いろいろな理由から
結局、60万人の朝鮮人が、日本に残ったわけです。

祖国の朝鮮半島は
終戦の1945年の8月に、ソ連軍が進駐

負けじと9月には
米軍が進駐し、38度線で、北と南に分断されました。

一方、日本に残った在日の方々は
在日コリアンの権利獲得へ向け、在日コリアン互助組織を立ち上げ

「朝鮮の言葉を取り戻そう」を合言葉に、朝鮮学校を設立しました。

自分たちで、運動場を作り
実に逞しく生き延びようとしたのですが

その当時、日本を統治してたGHQは
朝鮮人のことを、敵国民として扱ってましたので、不遇の時代を過ごしてました。

結果、とうとう1947年
朝鮮人は、日本国籍を有していても、外国人扱いにすることに、なりました。

そして1948年
朝鮮半島に進駐してた米ソが決裂、一発触発の状態になったのです。


次回に続きます。
  


Posted by まじみっちゃん at 05:49