2013年12月14日

女40人孕ました男の続編

前回の続きです。


歴史は
物語として、点ではなく、線で理解する

そうすると
いつまでも記憶に残りますので

前回から綴っている、三大改革の真面目な話

たまには、親子の会話として、是非とも子供さんに(笑)


十一代将軍家斉は、毎晩毎晩、大奥通い
日々、頭の中は、女のことで一杯、そんな状態ですので

松平定信が、せっかく貯えてくれた百万両も
浪費し、あっと言う間に、なくなり、再び財政は火の車に

それでも、好き者の極み、十一代将軍・徳川家斉は
側室・お美代にぞっこん、寝ても覚めても、お美代、お美代

さらに、お美代の親族を、要職につけ・・・

しかし、いよいよお金がなくなると
家斉は、金貨の金の量を、大幅に減らし、大量に市中に・・・

それにより、財政は、まやかしながら
一旦は、立ち直りましたが、家斉、69歳の生涯を閉じました。


代は、十二代将軍に移りましたが
家斉の浪費のツケが回ってきて、財政は、再び火の車状態に・・・

そこで水野忠邦が、「天保の改革」を行い、財政を建て直しました。

「天保の水野忠邦」ですね。

水野は、お美代と、その一派を、全て追い出し

大奥に対しては
大粛清をはかり、江戸幕府の健全化を、はかりました。

これが、歴史の試験によく出る、江戸時代の三大改革の中身です。


という風に理解し、覚えていけば
忘れないで、すむと思いますので

ご両親は、子供さんに

十一代将軍徳川家斉は
ほんまもんのスケベやったんやで。と、教えてあげて下さい(笑)


なお、江戸城本丸
大奥の跡地は、現在の千代田区にありますが

もし機会があれば
ご両親は、子供さんと一緒に、訪れて欲しい場所ですね。


日本は、他のアジア諸国と比較すると
明治時代以降、格段の成長を、なし遂げました。

それは、明治時代に識字率の高さが
世界一であったことが、最大要因であると、言われています。

寺小屋の時代から、日本人は、コツコツと学んできたのですね。

たまには、そんな話も、子供さんと・・・

ひょっとしたら子供さん

歴史に目覚め
興味を示してくれるかも知れませんので、きっかけ作りをお願いします。
  


Posted by まじみっちゃん at 21:30

2013年12月14日

江戸時代の三大改革に学ぶ

日本史の入試問題をみると
相変わらず、実によく出題されているのが

江戸時代の、3大改革に関する問題ですね。


七代将軍までの浪費がたたり

その当時の幕府の財政は
相当逼迫した状況に、なっていたようです。

そこに登場したのが

和歌山県人なら
知らぬものはない、八代将軍・徳川吉宗です。

先ずは吉宗、女性には興味がないのか
大奥から、若くて美しい女性を、追い出し

あらゆる経費を節減し、厳しく粛清をはかりました。

八代将軍、徳川吉宗

いよ~っ、和歌山の雄
皆さん、テレビ番組でもご存知の、暴れん坊将軍ですね。

「享保の改革」、「享保の吉宗」ですね。


ところが、九大、十代将軍の時代の浪費がたたり
またもや、幕府の財政は、情けなや最悪の、火の車状態に・・・

そんな中、十一代将軍に就任した
徳川家斉は、まだ幼い身でしたので

代わりに幕府の財政を切り盛りしたのが倹約家で有名な

「松平定信」

幼い将軍・家斉に対してさえも、一切浪費をさせず
徹底的に無駄を省き、倹約に励み、見事な改革を行いました。

それが、有名な「寛政の改革」ですね。

「寛政の松平定信」

借金だらけの財政から
何と百万両を貯蓄するまでに、改善したのですから、凄いですね。

ところが成人し
実権を握るようになった十一代将軍・徳川家斉は

こともあろうに、この立役者、松平定信を、お払い箱にしたのです。

要するに
将軍に説教し、行動を束縛するような奴は、幕府から去れ!ですね。

それからというもの
松平定信に、止められていた大奥へ、毎日通いつめ、手当たり次第に・・・

毎晩毎晩、上に下に
はい、アヘアへ状態に(誰ですか、羨ましいとため息ついてるのは?)(笑)

お手つきの女は、40人

子供は
次から次に、はっきり記録に残っているだけで、何と、ガーン55人

約千人の女から選んだ40人ですので
それはそれは、きっとヨダレが出るほどの、美人揃いだったのでしょうね。

超好き者十一代将軍・家斉(イエナリ)は
文字通り、べっぴんの女と、ヤりたい放題・・・


こんなことばかり書いていたら、腹が立って、疲れてきましたので

続きは、次回に

これは、決して下ネタ話ではなく
純然たる江戸時代の「三大改革」の話しですので、皆さん、誤解なきように(笑)
  


Posted by まじみっちゃん at 19:30

2013年12月14日

軍艦島よりも対馬がお薦め

長崎は、端島、軍艦島のことですね

その軍艦島巡りが
異常なくらい、人気をはくしているようですが

私に言わせれば
是非とも訪れて欲しい島

絶対のオススメは、「対馬」ですね。

たけしさんの番組でも
詳しく紹介されていましたが

韓国の釜山まで
50キロメートルしか離れていませんので

望遠鏡で覗いたら
釜山の街並みが、ハッキリと見ることができます。

対馬を一望できる烏帽子岳に登ると
いつもたくさんの人が、見学していますが

どうやら今は、そのほとんどが、韓国人みたいです。

対馬の街中も、ここは、本当に日本?
そう思ってしまうほど、韓国語、ハングル文字だらけ

聞くと、年間に15万人超の韓国人が
対馬を、訪れているというのですから

街には
韓国語、ハングル文字だらけというのも納得ですよね。

しかるにスーパーマーケットの店内も
大きな声で、ハングル語だらけですが

たけしさんの番組によると、人気があるのは

カレールー
特にハウスバーモンドカレー、パン類、きな粉餅・・・

食堂に入ると
チャンポン、チャンポン、皿うどんと、大きな声で

さらにカツ丼、トンカツ定食も好んで食べていました。

そんな長崎県対馬市

江戸時代の対馬藩の名残は
あらゆるところで、見てとれますので

歴史ファンの皆さんは、是非とも対馬を訪れてみて下さい。


長崎県の一つの歴史ある島
一日平均、四百人以上の韓国人が訪れてくる島、それが対馬です。
  


Posted by まじみっちゃん at 10:15

2013年12月14日

鎖国じゃなくて貿易の統制

最近は学校の歴史の授業では

相も変わらず
「鎖国」という教えかたを、しているのでしょうか?

江戸幕府は、海外との貿易を統制し
キリスト教を禁止するという政策をとっていましたが

それを「鎖国」と表現するのは、おかしい
江戸時代の外交は、「鎖国」ではなく、「貿易の統制」

歴史学者の間では、そういう声が、大勢を占めている

私は、勝手にそう感じていますが、現実はどうなのでしょうか?


現に江戸時代の貿易は
決して、長崎の出島だけではなく

薩摩藩は、事実上属国にしていた「琉球」相手に

松前藩は、今の北海道、「蝦夷地」のアイヌ相手に

釜山と50キロしか離れていない対馬藩は、朝鮮相手に

貿易を行っていたわけですから
決して、鎖国という言葉は、適切とは、言えないですよね。

江戸時代は
琉球、今の沖縄、蝦夷地、今の北海道は

日本では、なかったのですから、貿易相手と、なるのは、明らかです。


また貿易の統制を行っていたのは

日本だけではなく

ほとんどのアジア諸国は
「海禁」と称して、貿易外交を、厳しく制限していました。


日本は、元々、長崎県平戸市に商館を設け
イギリス、オランダ、東南アジア諸国と、貿易を行っていました。

学生時代に学んだ、よく聞く名前、「朱印船」、貿易船のことですね。


その平戸市から出島に

ポルトガルとイスパニア、今のスペインは

キリスト教を
植民地獲得の手段にしているという理由で、国交を断ち

さらにキリスト教も禁止したことで

これも学生時代に学んと思いますが
熱心なキリスト教信者による、島原天草一揆が起きましたが

制圧され

結局長崎の出島は、オランダと中国とのみ、貿易することになりました。


なーんて、学校の授業みたいになりましたが
私は、長崎出身ですから、ここら辺の話には、昔からウルサイのです(汗)


ウルサイついでに
長崎県出身ですので、長崎県対馬市、江戸時代の対馬藩ですね

この地の話も、次回、いろいろご紹介したいと思いますので、ご覧下さい。
  


Posted by まじみっちゃん at 08:05