2014年08月09日

続・日本の原子力歩み基礎編

米国が原子力爆弾を完成させ

その威力を試すために
広島と長崎に人体実験のために

2種類の原子力爆弾を落としたころ

日本は、まだ
原子力とは何かを、理論的にわかったような段階でした。


アメリカの科学は、それほど
日本を大きくリードしていたわけですが

そのリーダー的存在が、天才アインシュタイン博士でした。


湯川秀樹博士が
戦後アメリカの大学に招致されたとき

アインシュタイン博士が、わざわざ湯川博士夫妻を訪ね

自身が開発に携わった原子力が
何の罪もない多くの日本人の命を奪ったことを悔やみ

湯川博士夫妻に、深々と頭を下げ、何度も謝罪したそうです。


戦後、米軍は
日本の原子力開発の礎である

理化学研究所と京都大学の、サイクロンを完全に破壊しました。


そのため、日本の原子力開発は
この時点で、完全にストップしたわけですが

米ソの原子力主権争いの中

米国は、核アレルギーの日本に
東側勢力に対抗するために、原子力の平和利用を、促進しました。


その後、日本の核スキルは
あっという間に、米国と世界一を争うほど、見事な成長を遂げたのです。


しかし、皮肉にも日本の湯川博士
また米国のアインシュタイン博士ともに

息をひきとる、その日まで、核の全廃を、声を大にして訴え続けていました。


それは、このお二人が一番、核の本当の脅威を、ご存知だったからだと思います。


  


Posted by まじみっちゃん at 22:00

2014年08月09日

基礎編・日本の原子力の歩み

「アインシュタイン」「湯川秀樹」

このお二人の名前を
聞いたことがない方は、もぐりの日本人です(笑)


それほど有名なお二人ですが

このお二人が
いかに原子力に深く関わっているか

それをご存知な方は、意外と少ないかも知れませんね。


米国が、日本に原子力爆弾を落としました。

しかしもし、日本が先に、原子爆弾を作っていたら
あの当時の日本ですから、当然率先して使っていたと思います。


陸軍からの要請で戦時中
物理学者の仁科芳雄博士は、原子爆弾の開発に精進していました。

その仁科が所属していたのが
今話題の、小保方氏所属の、理化学研究所です。

後に大きな存在感を示す武谷三男氏は、その研究所のまだ研究生でした。


そして1949年に
日本人初の、ノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士も

京都大学で、核分裂について、日々研鑽を重ねていました。

この頃から日本の科学は
理化学研究所と京都大学が、中心となって、引っ張っていたのですね。


少し重たいテーマですので、一区切り。続きは次回に。是非ご覧下さい。




  


Posted by まじみっちゃん at 12:00

2014年08月09日

幼い頃から原子力の話を聞き

アメリカから
原子爆弾を落とされた「広島と長崎」

私は、そのひとつ
長崎の出身ですので

幼い頃から
原子爆弾に関する話は、よく聞かされていました。


私の亡き母の妹が
まさに爆心地で働いていたため

原子爆弾で亡くなりましたが
その亡骸を求めて、祖母が、気が狂ったように・・・


従姉妹が、原爆手帳を持っていて
病院代は、何であれ全て無料だと知り

空襲で傷ついた人には、何の補償も無いのに
何で、この人たちだけ、特別なんだろうと、疑問を・・・


日本人に交じって朝鮮人が
2万人近くも被爆し亡くなったことを知った時も

非常に複雑な気持ちになりましたが
当時の医師が、朝鮮人を後回しにして

日本人の治療にのみ、専念した話には、胸が痛みました。


次回、そんな原子力爆弾の
日本の歩みについて、基礎の基礎を、つづりますので、ご覧下さい。




  


Posted by まじみっちゃん at 06:00